私が考える雑木の庭(後編)
「雑木の庭」と言っても、その解釈は人それぞれ。里山みたいな庭をつくる人もいれば、高原のような庭をつくる人もいます。私の雑木の庭づくりでかかせないのは趣味の渓流釣りで学んだ自然のルール。釣りを通じて頭に刻み込まれた自然の景観が庭づくりの財産です。だから、庭に植える木の種類、樹形、配置、すべてのデザインに意味があります。
趣味の釣りから学んだ自然のことわり
私の雑木の庭づくりでかかせないのは、釣りの中で自然を学んだことでしょう。 小学校一年生のとき、家から二分位のところにある清水公園の池から私の釣り人生が始まりました。学校から帰るとまっさきに公園に釣り竿をもって行き、真っ暗になるまで釣り糸をたらしたものです。中学1年頃には、もう、独学でヤマメ、イワナを釣る渓流釣りを初めました。あまりに熱心に釣り具屋に通ったので、釣り道具屋の三水で「店長をやってくれ」って言われたこともあるほどです。
釣りは伊豆がホームグラウンドです。何十年も通っているので、目隠しされて、おろされてもどの川か一瞬でわかるほど知り尽くしています。伊豆の川は優しくて、たおやかな感じなんです。沢をのぼって山へ分け入っていくのは、まさにわくわくする瞬感です。3月、日差しがさんさんと降り注ぐなか、梅の香りをかぎながらの里山釣りもいいし、秋には、マンジュシャゲ(ヒガンバナ)を見ながらの釣りも味わいのあるものです。
釣りから学んだことは、いっぱいありすぎます。流れひとつとっても、石の配置、苔の生え方、木の生え方もみんな自然から学びました。川ってのは最初が細くて、海に向かってだんだん川幅が広くなる。だから、はじめは大きな岩がごろご ろしていて、海に近いほど削られて小さな砂利になっていく。 川の流れがぶつかる場所をアウトサイドベントといって、魚がいるところなんですが、一番深くなっています。なぜかというと流れがあたって、川底を削るから。だから、そこには川にかぶるようにせり出す石をつかうし、その向かい側の流れがおだやかな方には寝ているような平らな石を使う。川の曲線は、ちゃんと意味があるんです。木の生え方もそう。山のてっぺんに生えてる木はまっすぐだけど、斜面に生えている木は横に寝ている。太陽の光を少しでもうけようとそう枝葉が伸びるのです。川もそうです。川の両脇に生えている木がまっすぐなのはおかしい。川に向かってせり出すように生えています。 釣りを通じてを五感で自然を覚えたことは、雑木の庭づくりにおいて、私の財産になっています。
すべてに意味がなければデザインとはいえない
私の庭づくりでは、まず、最初に木を植えます。窓から眺めるためのもの、目隠しのためのもの、その庭のシンボルとなるもの、一本一本の配置にちゃんと意味があります。
その木をよけるように園路をつくっていけば、自然と曲線になる。すべて必然なんです。頭でっかちのデザインでつくった曲線はどこか不自然なものです。私のつくった庭の園路を歩くと、森の中を散策しているような気持ちになると思います。
庭の起源は、宗教的な場所だと思うんです。神様がいるみたいな場所、大きな自然を小さく凝縮した場所です。 神様が降りてくる庭のことをアイヌ語でカムイミンタラと言います。私が好きな北海道にある大雪山のタカネガハラもそのひとつですが、森林限界の湿原で、ヒグマが出るようなところです。だから、庭はちょっと非日常な部分があった方がいいと思います。
私がつくった庭が完成して、最初に見たお客さまから、「うちの庭じゃないみたい!」ていう感想をいただくことが多いんです。非日常の中に癒しを感じていただけたら、これ以上の幸せはありません。
→雑木の庭の実例へ